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GATTから始まって、WTOや、GAPや、TPPや、FTAAPなど、農政と国際貿易が絡み合うと、ローマ字略語が生まれるようなそんな気がしてならないわけですが、最近はTPPが農業界を騒がせています。
TPPは、太平洋の国々の貿易障壁(今問いただされるのは関税)を撤廃することを目標にしており、そうなれば、より活発に貿易・自由競争がおこなわれることになるというのが、基本方針です。
そんなことは、私が講釈を垂れるまでもなく、色々なところで取り上げられているわけですが、この協定が結ばれれば、日本の農業界に激震が走ることになるのは必至です。
日本のこれまでの農政からすれば、関税をかけないでどうやって日本の農業を守るものか、途方もない話であることは確かです。しかし、グローバル化した経済社会を前に、農業では鎖国的な政策を貫き、他の業界を無視しながら国益を図るなど、ウルトラCの交渉になるのではないでしょうか。
いずれにしても農業界は、近い将来到達する大津波に備えておく必要があるのだと思います。
そういった時代の流れの中で、何が大切になるのか!
今こそ「若手農業者」、「国際感覚の優れた担い手」を育てていくべき時だと言えます。
日本の農村に必要な若い力をしっかりと育てていくことが、ついには日本の農業を安定させていくことにつながるはずです。
保守的な視点からすれば、農業たるや変化せず地域に根付いて脈々と継承されていく産業と断定できるかもしれませんが、農業の姿はさまざまあります。専門化、大規模化、集落営農化、企業化、六次産業化など、農業の形は微妙に、しかし、確実に変化してきています。その変化は、時代の渦潮が醸した進化ともいえるのではないでしょうか。
世界の大きな潮流に逆らうことだけが、農業者の美徳ということではなく、その流れをうまく泳ぐ力を持つ農業者がいれば、農業の本質を失わないままにちゃんと生き残っていくことができるのではないでしょうか。
私たちが農業の担い手に求めるのは、ただの「跡継ぎ」ではなく、「成長する農業者」であるべきでしょう。
(A.K.)
なかなか更新できていませんが、がんばります。
S「旅行のガイドブックって、日本のと外国で書いてある事だいぶ違いますよね」
A「どういうこと?」
S「日本のガイドブックにはおいしいものや観光名所なんかたくさん書いてありますけど、ドイツで見かけたガイドブックには、歴史や建物の様式なんかがぎっしり書いてあって…」
A「おお、そういえば!」
日本の旅行ガイドブックといえば、地球の歩き方や、るるぶ、Tokyo walkerなど有りますが、どれも写真がふんだんに用いられて、分かりやすく、地図も細かくイラストも楽しく、行かない場所であっても、思わず手にしてしまうものがたくさんあります。
一方で、ドイツ語や英語のガイドブックを見ると、日本語のものに比べて明らかに文章が多く、ページの端々までみっちり埋まっている印象があるのです。
研修生たちも自分が派遣される国の旅行ガイドブックなど持ってくる人がいます。日本の旅行ガイドブックには確かにたくさんの見どころが書かれていますが、結構画一的で、慣習的なアイディアが載っている気がするのです。
どちらが面白いかと言われたら、明らかに日本の物の方が楽しいのですが、
S「ドイツのガイドブックに載ってることって、旅の内容を深めるのに役立つと思いますけど、日本のは便利なだけになりがちですね」
案内してくれること=ガイドですが、そうしなくてはいけないわけではありません。そういった意味で、ドイツのガイドブックは、読者の自活力に期待した「アドベンチャー」要素を残している意味で、好印象です。
でも、日本とドイツのガイドブック、どっちを買うかと言われたら、迷わず日本のガイドブックを手に取るだろうと(言葉の問題を抜きにして)思う自分は、楽をしているのか、それとも、それが普通なのか…。
(A.K.)
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丘の上にある家からJRの駅まで徒歩10分。中央分離帯のあるしっかりとした道路の両側に、幅3メーターほどの歩道があり、そこを自転車に乗ったサラリーマンがすごい勢いですり抜けていく。
これが意外と怖い。
普通にまっすぐ歩いているので、別にぶつかるわけではないが、もし、仮に、ものすごく突飛にも、自転車がきた瞬間に横っ跳びをしてしまったら、どうしようとか、きらきらとさわやかな太陽の日差しに、手でひさしを作って、「朝日がまぶしーゼ!」とか言おうとして、手を広げた瞬間に、後ろから突っ込んできた自転車の運転手にチョップしてしまったらどうしようとか、考えると、怖い。
ドイツやオランダ、デンマークでは、自転車専用の道が歩道とは別に設けられており、原則自転車はそこを通る。専用道路がない場合は、車道を走る。
自転車で歩道を走っているのを警察官に見つかると、交通違反で罰金の対象になることだってある。
一方、日本は、自転車専用道路がない。聞くところによれば、本来自転車は車道を走るものらしいが、例えば、冒頭の下り坂は中央分離帯のあるような大きな公道で、とても自動車と一緒に並んで走る気がしない。
ある時、この坂道の公道を自転車で下っている人がおり、乗用車がその自転車を抜き去る時、クラクションを豪快に鳴らしていた。
この場合、悪いのはどっちだ?
交差点で左折してくる車も怖い。日本では、歩行者が優先じゃないようだ。トラックが突っ込んできた時、そう確信した。間違いなく、ブレーキを踏むつもりがない風だった。
ヨーロッパにも、運転の荒い奴もいるが、私は欧州でそのような運転をする人を見たことがない。
こういうことは、交通ルールというより、マナーだと思う。
正直に言って、日本人の交通マナーは、悪いのだ。
(A.K.)
応援ありがとうございます。
川南町のムッチー牧場だよ~ん。
ケンゴのソルト日記
まぢめに牛飼い、たまにはバイク乗り
*☆気ままにウロンコロン☆*
牛飼い
JA宮崎中央ブログ
他にもたくさんの口蹄疫情報がネット上にはあります。どのように受け止めるのかはそれぞれの人が考えることかもしれませんが、口蹄疫という家畜の病気がたくさんの人の暮らしを打ち砕いているという事実は、疑う余地もありません。
今回の口蹄疫では、消費者の間違った知識によって「牛肉の不買い」のような事が起こっていないようですが、消費者の意識というのは、メディアによっても、また、国の方針によっても大きく方向づけられるものだと思います。
たとえば、農薬の危険性(適切な利用をしない場合)や食の安全について消費者がどのような知識を持っていればよいかは、単純な善悪観念で切り捨てられません。だからこそ、国の方針が必要です。
日本という大きな船に乗った船員たち(国民)は、そこで出される料理について、食べる食べないを選択できません。たとえば、ふぐ料理が出て、「毒だ!」という知識しかない船員たちが、どうやってその料理を食べようとすればいいのでしょうか?
やはり理由があって食べるのだと思います。
「これは食べても死なない料理だよ」
と言ってもらう必要があります。
農業に限ったことではないかもしれませんが、今回の口蹄疫でも、メディアが伝えるのは、事実関係とそれから読み取れる可能性や学術的な判断などで、政府の判断や指導は後から伝えられ批評されていきます。
途中経過を伝えることは難しいのかもしれませんが、そこら辺が伝わらないと、まるで何もしていないように見えるし、結論だけ強調すれば、冷静さが現場との温度差を生み出して猛烈な反発につながります。それならば、むしろ苦しい心情を晒してぶつけ合う方が物事が、理解しあえるのかもしれません。
えー、本来書こうと思っていたところから、大いにそれていっているのですが、強引に引き戻そうと思います。
ドイツの農水省ホームページに、とあるアンケート結果が出ていました。
「65%のドイツの消費者が地域生産された農作物を買うよう心掛けている」
というものです。
そして、47%の消費者が、野菜や果物の多様性(種類)に価値があると考えており、そのうちの70%がドイツで伝統的に消費される野菜に価値があると答えているそうです。
ホームページでは、この数字が高い意識を意味するとして取り上げています。
たしかに、ドイツ人といえば、私が現地にいて感じた限り、非常に食に対する意識が低く、どこからきている食べ物か分からなくても安ければ良いという人たちがたくさんいました。
一方で、有機農産物に高い意識がある人たちは、徹底してそれしか購入しない嗜好もあるようでした。
しかしながら、
日本で同じ調査をしたら、きっともっと高い数字が出るだろうと思います。日本人は、食に対して高い意識があると感じます。
だからこそ、宮崎の種牛たちが口蹄疫のせいで淘汰されるということは、何を意味するのか、消費者は意識的に知っている必要があると思います。
対岸の火事ではないのだということを・・・。
もしかしたら、それは、チリ産のサケの切り身や、東南アジア産のエビを考えるのと似ているかもしれません。
(A.K.)
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近年子供の火遊びが原因で発生した火事など、痛ましい事件を耳にしますが、そういったことが起こらないように、新しい規制制度を設けようというものらしいのですが、このニュースを読みながら、ふと、自分が子供のころを思い出しました。
私は、もともと長野の田舎の出身で、家の中に薪ストーブがあり、祖父が朝一番に起きて、ストーブに火を付けるのが日課でした。子どもというのは早起きなので、そういった風景を毎朝見ていれば、幼いながらに、薪ストーブの着火手順を覚えてしまいますが、絶対に手を出そうとしなかったものです。
小学校高学年になると私がストーブの番をすることもありましたが―。
父や母は幼い私がライターなどに興味を持つと、
「火事になるから危ない!」
と叱ったものですが、祖父や祖母は、
「火の神様が怒る」
と言っていたのを思い出しました。
今にしてみれば、子供の心に響いたのは、祖父母が言った言葉でした。
なぜかというと、火の神様に怒られるというのが、ただひたすらに、こわかったからです。
身の危険を感じる怖れと、不可思議なモノへの畏れでは、心への訴えかけがまったく違うのではないでしょうか?
火には神様がいるから、火で遊んではいけない、そんなことをする子供は罰が当たるという言葉は、現実に外れていません。
罰かどうかは別としても、火遊びが危険であることに変わりがないからです。
子供は、こわいと思うことで自分を戒めることがあるようです。
3歳の娘に、
「ご飯をいい子に食べないと、フジモト(崖の上のポニョのキャラクター)が来るよ!」
というと、効果テキメンで一生懸命ご飯を食べます。
「良い子に食べたから、もうフジモト来ない?」
という娘を褒めつつ、子供の単純さを可愛く思うのですが、この純粋な恐れを軽んじてはならないのではないかと思うのです。
人には、恐れが必要です。それは恐怖ではありません。
人間が侵してはならない領域を自分では定められない時、神が定める敷居のようなものではないでしょうか?
ドイツの絵本に「Struwwelpeter」というものがあります。古い絵本ですが、日本語にも訳されていて、「もじゃもじゃのペーター」というタイトルです。
もじゃもじゃペーター(amazon.co.jp)
色々な短編が入った絵本ですが、何といっても、 独特の画風が印象に残ります。
その中に、女の子がマッチで火遊びをして体が燃えて灰になってしまうお話が入っています。
燃え尽きた女の子の両脇で滝のような涙を流す2匹の猫を自分に置き換えつつ、制度化以上に親が持つべき心構えを心に刻むのですが、皆さん、どう思いますか?
(A.K.)
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